2005年01月12日

【死海のほとり】/遠藤周作

遠藤周作/新潮文庫
遠藤周作は多分中高生の頃に「白い人黄色い人」「海と毒薬」あたりを読んだものの、そんなには興味はひかれず特に意識にも登ることはなかった作家さんなのだが、結婚後、ダンナの本棚に並んでいた「死海のほとり」を読んで印象は一変した。キリスト教文学への印象も変わった。ちょうど、10代の頃一生懸命読んでいた三浦綾子や曽野綾子などの作品が妙に鼻につきだした頃だっただろうか(あくまでも個人的感想です(^^;)。ファンの方ごめんなさい)。信仰、と言うものから一歩離れて、それに疑問を持ちながら、でも、捨てきれず、確かめようとしている、そう言う遠藤氏の描き方にひかれたのかもしれない。キリスト教のことはほとんど何も知らず、興味もたいしてなかった私であるけど、神様ってなんだろう、信仰ってなんだろう、人間にとってそれはどういう意味を持つのだろう、と、考え出す契機になった本でもある。(相変わらずキリスト教のことは知らないので、あくまでも普遍的な内容での思考ではあるけど。私は多神教的な考え方が好きよ←アニミズム的思考とも言う。八百万の神様ね。根っからの日本人だわ)
 私はこの本を読んで2000年前に生きた「イエス」と言う1人の人間にとても興味をひかれたのです。そして、遠藤氏が描く「イエスという人間の生き様」にもとても惹かれたわけです。「いつも私はあなたの側にいる」「私は決してあなたを見捨てない」。個人レベルでもとても難しいことなのにその対象を人間全体にまで広げようとした、イエスって一体どういう「人」だったのか。
 そのイエスの死後、彼の言葉や行為がどのようにして語り継がれ、宗教となっていったのかもちょっと興味はあるが(そして、同じく遠藤氏の「イエスの生涯」「キリストの誕生」と繋がっていくのよねえ)、一番考えることは「人間にとっての信仰てなんだろう、それは生きていく上でどういう意味を持つのだろう」と言うことと「いつも側にいる、絶対に見捨てない、と言える(言って貰える、じゃないよ)相手を1人で良いから持てることができたら、それは人生で一番幸福なことなんだろうな」と言うことである。とても難しいことだけどね。

 余談。小川国夫の「枯木」がもう一度読みたい。イエスが十字架を担いでゴルゴダの丘に向かう時の情景を切り取った本当に短い小品。アポロンの島/新潮文庫に入っているのだけど、この本がここしばらく行方不明(;_;)。数年前に読み返した記憶はあるんだけどなあ。とても古い本で多分もう絶版じゃないのかしらん。悲しい。講談社文芸文庫から出てるみたいだけど買い直すべきか。

SayaT at 2005/01/12 | Comments [0]

2004年12月25日

【シャイニング/小説と映画について】

シャイニングとWの悲劇は、映画化に当たって見事に話を書き換えちゃってましたね。でもそれはそれでとても良かったと思うな。小説は小説で面白い。映画は全く別物として、これまた面白い。Wの悲劇、の方は細かいところはもう忘れちゃってますが(^^;)シャイニング。小説はホテルが主役でその中に「父と子」の絆、と言うものが一本太いテーマとして貫いていたように思いますが、映画の方ではそれらがほとんどみられない。
 映画の方では「人間はいかに狂っていくか」という部分を私は興味深く観ていました。これがめちゃくちゃ面白くて怖かった。ホテルに棲む幽霊達の仕業なのか、一人の人間が狂っていく過程で現れた現象なのか、そのあたりがとても曖昧なところが怖かった。(どうにも説明のつかない部分、というのは一カ所だけ。狂ったお父さんが閉じこめられた、鍵のかけられた貯蔵庫(だったかな)のドアが外から開く…、誰が開けたのだ?、と言う部分だったかな)。 閉じられた場所で一人の人間が静かに狂っていく。何故か分からない。止めようがない。そしてそれがじわじわこちらに迫ってくる。追いつめられる。逃げ道はない。「場所」までもが狂っていく人間に味方をしているように思える。いや、その「場所」が人を狂わせているのか。その「場所」には何かがいるのか、いないのか。何も分からない。それがとてもとても怖い。
  小説の方では、ホテルには歴然と何かが棲みついていてそれがお父さんを乗っ取った、と言う形になっていますから、その曖昧な恐ろしさはないです。幽霊屋敷の恐ろしさ、と言う怖さだよねえ。お父さんの葛藤の切なさを感じる小説でもありましたなあ。 「幽霊」より「人間」が怖い私としては、怖さと言う点では映画の方に軍配上げちゃいます(^^;)

 ところで ジャック・ニコルソン凄すぎ。私はあまり俳優さんの名前とか覚えないのだけどニコルソンの名前はこの映画でがっちり覚えました。

SayaT at 2004/12/25 | Comments [0]

1999年12月25日

【絶対音感】最相 葉月

最相 葉月 (著) / 小学館
 少し前、「絶対音感」という本が流行りましたよね(註:この感想文を書いたのは1999年のことでした)。 それをついこの間、やっと手にしました。 買うほどもないけど読んではみたいな、と思っていたのが、 実家に遊びに行ったら、おいてあったのです。
 借りてきて読み始めたのですが、なんだかよく分からない。 なんであんなに騒がれたのかな。 みんな聞き慣れない言葉を聞いて (絶対音感なんて言葉は普段そんなに 使われる言葉じゃないですよね)、 それを変に誤解して、 大騒ぎになってしまっただけのような気がします 。

 絶対音感というのは、わたしは ピアノの音がそらで分かる能力だと思っていました。 目隠しをしてピアノをぽんとでたらめに弾いたときに、 どんな音でも当てられる、ただそれだけのこと。 なんの役に立つか、というと、耳で聴いただけの曲を 楽譜に写し取ったりする事が楽にできると言うだけのことじゃないかな。 あと、音大の受験にはとっても役立つかな(笑)。 (聴音の試験の時に苦労しないですみます)。 音楽性やセンスとは何ら関係はないと思っています。 訓練すればどんな人にだって付く能力です。 子供なら絶対つきます。大人になってしまったらどうか分からないけど (でも、音楽性や、センスというものは「訓練」で 身につくものではありません) 。
 自然界のあらゆる音が音名で聞こえるというのも変。 自然界の音は12平均律で鳴っている音ではないのに、 ドレミで聞こえるはずがないのに。 ドレミの音の高さの近似値で聞こえる、というのなら分かるのですが。 この本の中にもそれはそのように書いてあるけど、 この本を読んだ人の話を聞いていると、 絶対音感を持つ人はどんな音も音名で聞こえてくる、 と思い込んでいる人が多いようで(^^;) (そういう話をあちこちで聞いて、わたしは 私の思っていた「絶対音感」という言葉の意味は 実は間違っていたのだろうか、と思って この本に興味を持っていたのです。 でも実際読んでみたら、別になにも間違っていませんでした。 なんだか「絶対音感」という言葉がこの本がでたために、 意味が少しねじ曲げられて一人歩きしてしまったような気がしました。

 ピアノの音がそらで分かっても、 それはたんなるひとつの特技でしかないし、 DTMで耳コピでもしようと思わない限り、 ふだんの生活ではそうたいして役に立つ能力でもないし。 本の中にあった、ドレミで音がすべて聞こえるために、 音楽を楽しむことが出来なかった、という方のエピソードは、 その方が神経質すぎただけではないかな、とも 思ってしまいます。 音ではなく文章でも、神経質な人はひとつの言葉に引っかかって、 たとえば、きらいな言葉を使う小説家の文章は 読むだけで吐き気がする、という人だって居ますよね。 それと同じじゃないのかしら。

 音が色を伴って聞こえてくる、というのは分かるような気はします。 これはその人の音楽性の問題じゃないかなと思います。 その人がどのようにその音を受け取っているか、 音に対して感じるものを持っているか、で、 「色」というものが出てくると思うので、 それは人によっては「匂い」であるかもしれない。 「形」や「手触り」でもあったりもするかもしれない。 それはその人の「音」に対する感受性だと思うので 。

 なんだかとてもとりとめのない文章になってしまいました<。 わたしは何が書きたかったのかな(^^;)。 「絶対音感」という本を読んで「変なの」と思ったことが、 書きたかったのでした。 あ、これは「本に書いてあることが変」じゃなくて、 「絶対音感という言葉がずいぶんと変に、 ねじ曲げられちゃったなあ」と思った、ということです。

 絶対音感を持っているっていうのは、 全然たいしたことじゃないし、 音楽をやるための必須条件でも全くないです (相対音感がしっかりあればいいのです) 。 小さな頃からピアノを習っていて、 ちょっと勘のいい子供なら特別訓練しなくても、 自然と身について行く能力です(と思っています)。 自然界で聞こえてきた音がドとレのあいだの何ヘルツの、 ところに値する音だ、というのが分かるっていうのは、 俗に言う絶対音感の意味とはちがうと思うのでした。 それこそそんなことが分かったってなんの役にもたたないですね(笑)。 わたしは分かりません。ピアノの音ならなんでも分かるけど。 DTMするには結構便利な能力かな、とか思っています

SayaT at 1999/12/25 | Comments [0]