2005年01月31日

ぼくんち・その2

 その1を書いてから、じっくり再読。久しぶり。でまたなんか書いている、と(笑)。いや、だって書き足りない(笑)

 思うに、とても分かりやすい「記号」なんですね。この作品は。マンガというもの自体が記号から成り立っているわけだけど(その記号を確立したのが手塚治虫で、少女まんが独特の記号を展開したのが昭和24年組のあの方々…という論説を昔どっかで読んだ。確かに…と思った)。このまんがもやはり記号で描かれている。それもとても分かりやすい記号(よく使われる記号、と言い換えても良い)。でも、この「記号」ってのは下手するととってもベタになってしまうのね。恥ずかしくって読んでられなくなる、と言うか。この「ぼくんち」も「ああ、ベタな表現だなあ」という部分が随所見受けられるのだけど(でもって、狙ってるなあ、とも思う)、でも巧いのよ。文章が巧いんだなあ。短い文章で実にツボをついた表現をする。狙ってるな、と思うのに、その狙い所にすとっと落とされてしまう。巧いなぁ…

 かのこ姉ちゃんに関して追記。姉ちゃんはこの先長く生きられないような気がしてきた。だから二太を手放した。一太の様にさせないために(姉ちゃんには、一太がどうなっているのかはきっと分かっている)。姉ちゃん、ずいぶん疲れてきている。泣いたら世間がやさしゅうしてくれるか!泣いたら腹がふくれるか!泣いてる暇があったら笑え!と、笑って生きてきた姉ちゃんが、だんだん笑えなくなっていく。(それでも自分の脇腹をこそばして無理矢理笑おうとする)。かのこ姉ちゃんが求めてきたものは得られなかった。それはこの町の環境のせいなのか、もっと他に理由はあるのか。手に持てるだけのものを持って、この町で一太と二太と、家族で暮らしたかっただけなのに。
 なんだかねえ。やはり絵本のような体裁と乾いた笑いとで見えにくくしてあるけど、物凄くウエットで悲惨な物語だな(^^;)

 きっと二太は漁師のじいちゃんの元で元気よく育っていくだろうな、と言うのと、こういち君が素朴で静かな生活を見つけたのが、大きな救いになっているのだろう(こういち君のあれはファンタジーだね。それこそ、世の中そんなに甘くないだろう、と思う。でもみんなが自分の手の大きさにあった幸せを見つけることができたらいいのにね)。漁師のじいちゃんが魚を捕って平和に生活していけますように。読み終えたあと、昔も今も切に願う、読後の感想である。

  
鳥頭紀行も再読して、苦笑い大笑いしつつ、やっぱり住む世界は違うわ。しかし、表に出てこない部分で妙に共感してしまうのも同じだわ。

SayaT at 2005/01/31 | Comments [0]

2005年01月26日

【ぼくんち】/西原理恵子

西原理恵子 /小学館 スピリッツとりあたまコミックス
全3巻の中の第1巻↑。全てを1冊にまとめたコミックスも出ているようだけど、お財布に余裕があるなら是非、とりあたまコミックスで読まれることを強力おすすめ。絵本のような作りで、それがまた切なく哀しく、面白い。

 西原理恵子って凄いと思う。「ぼくんち」を読み「とりあたま紀行」を読んで、どういう人なんだろう、と、腕組みをして考え込むが、私ごときには答えはでない。凄い人であり見事な才能であると、私は思う。(^^;)。

 この人が実際に属する世界はよく分からないけど、この人が描く世界は、映画「モンスター」の感想でも書いたけど「私とあなたは住む世界が違う」なのである。私はこういう世界では生きてこなかったし、身近にもなかった。多分これから先も身近に見ることはないように思われる世界である。でも、ガンガン来るんですよ。堪らなく切なく愛おしく感じる。思うに、西原理恵子氏のものの考え方の根っこが大好きなのだと思う。住む世界が違っても根っこの部分が同じ人っているのだろうか。いるのだろうな、と思える。(実際、同じ様な環境、境遇に棲息している人達でもどうにもこうにも思いが沿えない人も多数いるから、世界が違っても同じようにものを考える人はいるんだろうな、と思う)

 かのこ姉ちゃんが、私は大好きだ。モンスターの主人公と同じ様な立場に、多分彼女はいる。でも、彼女は自分の「生きる道」が本能で分かっているように見える。そして彼女には守りたい子供たち(弟たち)がいる。いるけど、彼女はその子供たちを保護や道徳で囲ってしまったりはしない。かのこ姉ちゃんは無自覚にではあるが「生きていく」事についての哲学を自分の中にしっかり持っているから、子供たちに日々の辛い現実のそのまん中で、それ(人間として生きていく一番の根っこの部分)を教え込む。姉ちゃん凄い。全然立派じゃないし世俗にまみれて一般的に見れば底辺のめちゃくちゃな生活と人生なんだけど、でも、かのこ姉ちゃん凄い。彼女は一番大事な選択肢の選択を間違わないのである。これが凄い。
 しかし姉ちゃんが弟たちにどんなに愛情を注ぎ頑張ろうとも、世の中は甘くないから、弟たちのうちの兄ちゃんの方は道をどんどん踏み外していく。それは人手に渡ってしまった「ぼくんち」を取り戻すためであり、姉ちゃんのためでもある。でも、彼は道を間違える。家は戻らないし姉ちゃんの境遇も変わらないし、事態はどんどん悪くなっていくだけ。自分が道を踏み外していることを分かっていながら、彼にはもうどうしようもないのがとても哀しい。結局姉ちゃんは、昔の家を燃やしてしまい、一番末の弟を遠い親戚のじっちゃんに預ける(いつか迎えに来てな、と言って)。これが彼女の最後の選択である。とても哀しく切ない選択だ。そうして「ぼくんち」はバラバラになってしまう。…こんな風に説明すると、えらく悲惨な話のように思えてしまうけど(実際とてつもなく悲惨な内容の世界なんだけど)、それをギャグも織り交ぜて笑いを込めながら描いてしまうところに西原氏の凄いところがあるんだと思う。このマンガには、「人間にとっての一番大事な部分ってなんだ?」と言うメッセージがてんこ盛りになってると思うよ、私は。(そんなこと言ったら、西原氏は「ケッ」と言うだろうけど(笑))

  
余談の追記;

 現在毎日新聞で毎週火曜に連載中の毎日かあさん」は、さすがに一般紙連載だけあってかなり毒は抜けておりますが、でもやはり「西原氏」のマンガでとても楽しい。でもって、、やはり私は西原氏の考え方の根本が大好きなんだと思う。だって、子供の育て方、と言うか、子供を育てるに当たっての信念が同じだもん!(笑)。西原母さん頑張れ!


も一つ追記。
読んだのはずいぶん前で、最後に読み返してからももう1年くらい経ってるのに、そのまま感想なんか書くもんだから、一番大事な部分をすっ飛ばしてたじゃないか(^^;)。と言うことで、本文一部修正。アップし直し。

SayaT at 2005/01/26 | Comments [0]

2005年01月25日

【薬指の標本】/小川洋子

小川洋子 / 新潮文庫
 小川氏の作品は結構好きで、だけど、追っかけるというほどでもなく、本屋で文庫を見つけるとなんとなく買ってくるということが多い。少し前に買ったまぶた」/新潮文庫は今ひとつぴんとこなかったのだけど、こちらは結構好き。
 この人の小説に出てくる女性たちはみな現実から剥離され浮遊しているような気がする。私は人間が生物として生きていくのって結構ドロドロなもんだと思っている。生きていれば毎日皮膚の表面は死んで剥がれて垢やフケとなるし、年齢を重ねるうちに血管の内側にもドロドロのものが堆積してゆき、そうして動脈硬化を起こすような、それが「生物として生きていく(あるいは老化していく/生物とは生れ落ちて成長しきると同時に老化が始まるものなのだ)」、という事であるような感覚が私にはあるのだけど、この人の小説の中の女性たちにはそれがない。(少女漫画やアニメや、それらだって同じだろう?と言われるかもしれないけど、あれらは違う。あれらはそれが「お約束事」になっているから。「お約束事」の上で展開される世界だ、という決まりになっているから。でも小川氏の小説にはそんな「お約束事」はない。私には感じられない)。彼女たちを取巻く世界は実際はどうであれ彼女たちにとっては透明で剥離されているものであり、そこでは彼女たちは老化しない。つまり彼女たちには「死」もないわけなのだけど、でも「生物」でもあるのでそういうわけにはいかない。だから、彼女たちは「消滅」していく。「美化された死」ではなく、単なる「消滅」。うーん、上手く言えないけど、小川さんの小説を読むといつもそんな気分になる。文章の不思議な透明感によるものなのかもしれない。その透明感と剥離感に私は惹かれて、文庫を見つけると買ってくるのだけどね。

 同じような現実剥離感は吉田知子氏の「無明長夜」を読んだときにも思ったのだけど(これももう絶版ねえ)、吉田氏の女性たちの方は「ドロドロに生きている」のよね。ドロドロの堆積物は血管の内側などの見えない部分だけではなく、彼女たちの皮膚をも覆っている。普通の人たちはそれに気がつかないのだけど、彼女たちにはそれが見えていて、そのドロドロの膜の内側で現実世界から剥離されている。そんな感じ(ああ、でもそう言うふうに感じるのは吉田氏の初期作品群のみです。最近のはよく知らないしよく分からない。読んでない…)。

 私はそういう「剥離感」にとても惹かれるのかもしれない(^^;)

  
余談:単語のもつ印象
隔離じゃないのよ、剥離なのよ。ひっぱがされているって感じなのよ。隔離、だと、内部にいる「私」はあくまでも確固として「私」だけど、剥離だと違う。ほろほろかベリベリかは分からないけど、ともかく剥がれていく。剥がされていく。そうして、だんだん「無くなって」いく。

SayaT at 2005/01/25 | Comments [0]

2005年01月24日

【モンスター】

(劇場)2003/米独/パティ・ジェンキンス
 ちょっとだけおっかなびっくりで見に行ったんですが、まあ、観て良かった、と思える映画で良かった。
 これもある側面から見た真実であり、だからといってその行為が許されるものではないにしてもいろいろと考える部分はたくさんある、と言うことを見せてくれる映画でした。思うに、世の中をしっかりと渡っていけない人というものには、人生におけるいろいろな選択をことごとく間違った方へと選んでいってしまう、と言う面はないだろうか。一つの間違いが次の選択の幅を狭め、修正することがどんどんと難しくなっていってしまう。大人になってからの選択ミスというものは、本人が責任を負わねばならないものなのだと思うけど、哀れなのは、そんな責任を負わされるべきでない幼少時にとんでもない選択を強いられ(選択を強いられる、というのはおかしいね。人間として生きていくのに極悪極まりないことを強制される、ということである)その結果、その後の人生における選択の幅が極端に狭まり、堕ちて行かざるをえない子供が世の中には多数いる、と言うこと。世の大人達は、子供が自分の頭で考え、選択し、その選択した結果の道を自ら歩んでいけるような力がもてるよう、おのれの子供たちを育てて行かねばならない。
 …と言うことはとても簡単だが、子供をそのように育てていくのは結構難しいことかもしれない。最近の世の中の情勢を見ていても(^^;)。自分で考え選択し、その行動に責任を負うことができない大人に、そう言う子供を育てられるはずがない。実際問題、私自身さえも自分の子供をそう言うふうにちゃんと育てているかどうかは分からない。ただ、自分で選択しその結果の行動に責任を持てる大人になって欲しいとは切に思っている。その前に自分がそう言う大人に育っているかって事からして疑問ではあるが、でも自分で選んだ道に対しては自分で責任をとろう、とは思っているしそう言う風に生きていきたい、とも思っている(実はただの臆病者という話もあるが、まあ、話がずれすぎるのでそれはまた別の機会に別の場所で)。
 …てな感じで、いろいろいろいろと考えさせられる映画でした。子供は産まれてきた時には皆同じものを持っているはずなのに、その後の人生がどうしてこうも変わってきてしまうのか。なさけない。

 以上は余談ですかね(^^;)。あとは単純に映画の感想を。アイリーンは愛されることに飢えていたけど、それ以上に「愛する」事に飢えていたような気がする。だから、「愛する」対象を見つけたあとのアイリーンはどうしようもなく切なく見える。それでもまだ、「殺す」事に理由を見出していた間は良かったのだけど、最後の犠牲者を殺してしまった時、彼女の中で全てが壊れちゃったんでしょうね。彼女が見つけた「愛する」対象がああいうおじいさんだったら、もしかすると彼女は更正できていたかもしれない。その後の人生を平穏に暮らせていたかもしれない。そう思うと、「モンスター」だったのは実はセルビーではなかったか、と言う気までしてくるのである。人に頼ることしかしない、人に求めるだけの、でも一見ひ弱で善良そうに見える、そして多分「純粋」でもある「子供」のセルビー(だからこそアイリーンもセルビーを守ろうとあんなに必死になったのかもしれない)。最悪の組み合わせよねえ。これは。が、人生なんてこんなもんで、こういう事は世の中にたくさんあるのだろう、とも思います。「あんたと私は住む世界が違う」という言葉はとても重い。

蛇足の余談。
「世の中をしっかりと渡っていけない人」という文章の意味ですが、「世の中をしっかりと渡っていける人」=「成功した人」とか、「生活レベルが上の人」とか、そう言う意味ではありません。自活できて人の道も踏み外さず、それなりに生きて、生活できている、と言う意味であります。山の中の一軒家で自給自足でヘイコラ生きているのでも、それでその人が納得しているのなら十分であるわけです。自分が現在置かれている境遇に納得できず、ある目的を持ってその目標に向かって必死になってる人もそれはそれでよいわけです。…ちゃんと生活ができているのなら……。

もう一つ。蛇足の蛇足。
「でも」「だって」「だけど」 …日常でこれらの言葉が連発されているとしたら、それはいけません。再考の余地有り。頑張りましょう。(何に?何を?(^^;)。いや、それも自分の頭で考えましょう) ……えらそうやな、自分(^^;)。まあ、私も頑張ります。人生まだ先は長いはず……。

SayaT at 2005/01/24 | Comments [2]

2005年01月14日

【春夏秋冬 そして春】

(劇場)2003/独韓/キム・ギドク 
 話には聞いていたけれど本当に、静謐で美しい風景。風景も美しいのだけど、それの映し方も素晴らしいの一言。だからこそ、そこに住まう人間の業や欲やそう言ったものがよく伝わってくるのかもしれません。
 さて、内容。人生は回る回る、人間の営みはひたすら繰り返される。自然と仏様はただ黙って、良いも悪いも関係なく、全てをご覧になっている。…であるか、と(^^;)。春夏秋冬で終わらず「そして春」と繰り返されるのを見れば、悟りの境地に至っていたかのような老僧さえも実は業まみれで春夏秋の3つの季節を過ごしてきたのだろう、と、思えるじゃないですか。ただひたすら回り続けるこの世の中で、ちっぽけな人間はそれぞれ悩み苦しみ、生きてゆくのです、…とは言っても、この映画ではそう言う部分は余り感じ取れませんが。ひたすら淡々と、人生の四季が描かれているだけです。

 こう言うところで暮らしてみたいですね。衣食住は自力調達。業まみれの私は、どれだけ保つだろう。まず数日で「食」の部分で音をあげそうです。

 
余談。弩級阿呆な感想です。
1:なんで秋の青年だけ、あんなにめちゃくちゃハンサムなんでしょう!?
2:冬のお坊さん。山に登ってる間、あの子供はどうしたんでしょう?庵に置いておいたら、即死んじゃうと思うけどなー。
3:門と庵の直線上にトラップのような穴を掘ってはいけません。
4:老僧、実は超能力者!!

おしまい。(もうやめんか!と殴られそう(^^;))

SayaT at 2005/01/14 | Comments [0]

2005年01月13日

【オールド・ボーイ 】

(劇場)2003/韓/パク・チャヌク 
 肉体的に痛い映画はあまり好きでないので(二重スパイで懲りたし)見に行くつもりはなかったのに…新聞の映画評にほだされてつい(^^;)劇場まで足を運んでしまいました。結論。痛いと言えば痛いのだけど、テーマ的には好きなタイプだったのでまぁ良し、と。ちゃんと見られました。
 ただ、描き方は、あまり好きなそれではなかったです。原作がマンガなんですねえ(未読ですが)。結構上手く映画化しているのではないか、と思うのですが、私の好みには合わなかった、と言うことですね。

 内容。やはり「なぜ15年間も監禁されのか?が問題なのではなく、なぜ、今、解放されたのか?が問題なのだ」の一言に尽きるかもしれません。うーむ、と唸ってしまいました。そしてあのあんちゃん(社長の方ね)の執念にも。「喋りすぎた男」というのも怖いですが、しかし、噂を広めた無責任な級友達はお咎め無しですか(^^;)。そのあたりからも、私怨のドロドロ感が物凄く…もうそれに尽きる映画だったかもしれません。よく言われる衝撃的なラスト等は、なんとなく先が途中で見えてしまったのと、あと、背徳的な部分にしても…この手の設定は結構小説や何やで良く見るので(^^;)、私的にはそんなに衝撃でもなかったり。いや、それを良し、としているわけではけっしてありませんが。が、暴力的に関係を強要される、所謂虐待などのことを考えた時に、そこに愛があるだけまだ救いがあるのではないだろうか、などとそれこそ背徳的なことまで考えてしまったりして。
 ともあれ、とても印象には残る映画でしたが、私は好きではないかな。テーマとしてはそう嫌いな分野ではないのですが、最初にも書いたように「描き方」があまり好きでないのでした。

余談。生物学的に見ても許されるものではないのだけど(種の衰退に直結する行為ですからねえ)、人類という奴はこの関係に何か夢見るものがあるのでしょうか。映画ではあまり知らないけど、小説等ではよくありますね。あと、血の繋がりはないけれど…というパターン。光源氏とかあしながおじさんとか(^^;)あれらも一種の近親相姦ではないか、と。しかし「自分の将来の嫁を育てる」、と言う感覚が実感として今ひとつ分からない、私である。女性だからかな? そういや「自分のダンナを育てる」女性の話って見たことないような気もする。母性本能の問題も絡んでくるのかなあ。(言わずもがなの註。「育てる」というのは文字のごとく「育児」のことね) 話がどんどんやばい方へずれていきそうなので、ここいらでお終いとしましょう(^^;)

SayaT at 2005/01/13 | Comments [0]

2005年01月12日

【死海のほとり】/遠藤周作

遠藤周作/新潮文庫
遠藤周作は多分中高生の頃に「白い人黄色い人」「海と毒薬」あたりを読んだものの、そんなには興味はひかれず特に意識にも登ることはなかった作家さんなのだが、結婚後、ダンナの本棚に並んでいた「死海のほとり」を読んで印象は一変した。キリスト教文学への印象も変わった。ちょうど、10代の頃一生懸命読んでいた三浦綾子や曽野綾子などの作品が妙に鼻につきだした頃だっただろうか(あくまでも個人的感想です(^^;)。ファンの方ごめんなさい)。信仰、と言うものから一歩離れて、それに疑問を持ちながら、でも、捨てきれず、確かめようとしている、そう言う遠藤氏の描き方にひかれたのかもしれない。キリスト教のことはほとんど何も知らず、興味もたいしてなかった私であるけど、神様ってなんだろう、信仰ってなんだろう、人間にとってそれはどういう意味を持つのだろう、と、考え出す契機になった本でもある。(相変わらずキリスト教のことは知らないので、あくまでも普遍的な内容での思考ではあるけど。私は多神教的な考え方が好きよ←アニミズム的思考とも言う。八百万の神様ね。根っからの日本人だわ)
 私はこの本を読んで2000年前に生きた「イエス」と言う1人の人間にとても興味をひかれたのです。そして、遠藤氏が描く「イエスという人間の生き様」にもとても惹かれたわけです。「いつも私はあなたの側にいる」「私は決してあなたを見捨てない」。個人レベルでもとても難しいことなのにその対象を人間全体にまで広げようとした、イエスって一体どういう「人」だったのか。
 そのイエスの死後、彼の言葉や行為がどのようにして語り継がれ、宗教となっていったのかもちょっと興味はあるが(そして、同じく遠藤氏の「イエスの生涯」「キリストの誕生」と繋がっていくのよねえ)、一番考えることは「人間にとっての信仰てなんだろう、それは生きていく上でどういう意味を持つのだろう」と言うことと「いつも側にいる、絶対に見捨てない、と言える(言って貰える、じゃないよ)相手を1人で良いから持てることができたら、それは人生で一番幸福なことなんだろうな」と言うことである。とても難しいことだけどね。

 余談。小川国夫の「枯木」がもう一度読みたい。イエスが十字架を担いでゴルゴダの丘に向かう時の情景を切り取った本当に短い小品。アポロンの島/新潮文庫に入っているのだけど、この本がここしばらく行方不明(;_;)。数年前に読み返した記憶はあるんだけどなあ。とても古い本で多分もう絶版じゃないのかしらん。悲しい。講談社文芸文庫から出てるみたいだけど買い直すべきか。

SayaT at 2005/01/12 | Comments [0]

2005年01月07日

【ピクニック at ハンギングロック】

(TV)1975/豪/ピーター・ウィアー
 いつ見たのか思い出せないくらい昔に、TVで見た映画。セピアっぽい色合いの画面の中でひらひら翻る白いドレスに黒い靴下の少女たち。きれいで幻想的で、昔の貴族趣味的な世界観と相まってとても耽美的な映像。なのに「ハンギングロック」という不気味なタイトル(テレビ放映時のタイトルは、首つり岩へのピクニックかなんだか、そう言うタイトルだったような気がするのだけど)に、訳の分からないストーリー。そのあたりのアンバランスさがたまらなく好き。もう一度見たくてレンタルビデオ屋に行くたびに探してみるのですが、置いてないですねえ。細部は忘れてしまっているのですが、あの夢の中のような風景や少女たちの映像は頭の中に焼き付いています。

 追記:うわっDVDで出ていました。もうびっくり。今まで私の目が見えてなかったのか、あるいは最近入荷されたのか。ともあれ、いそいそと借りてきました。tsutaya、ありがとう~。で、多分数十年ぶりくらいで見直したわけですが、やはり訳の分からない映画ですね(^^;)。まあ元々が「迷宮入りの謎」とされた実際の事件を元に作られた映画なのですが、映画の中でのそれなりの決着さえも付けようとはしていない。しかし、映像美は凄いです。…あの乙女チックさには拒否反応を起こす人もいるかもしれないけれど、私は大好き。ローティーンだった頃憧れていた世界がそっくりそのままそこにあるって感じですね。でも世の中の不条理(貧富の差ですね)なども端々から感じられたり…。ともあれ、多感な少女期を夢の中のようにひたすら美しく描いた作品(ミランダが本当にボティチェリの天使の再来、と言った感じで美しい。目の保養……)。…岩山が凄いです。いっぺん行ってみたいです。でもあんな岩の隙間をうろうろしていたら、本当に迷って遭難しそう。間近で観たら圧倒されるだろうなあ。(2003/07/11追記)

 amazonで検索していて、ディレクターズカット版のDVDが発売されることを知りました。やー、欲しいかもしれない…どうしようかなあ。迷う迷う。

SayaT at 2005/01/07 | Comments [0]